女子は知らない 男の本性

2月9日の読売新聞の夕刊に衝撃的な事実が報道されていた。

※この記事は2007年2月の筆者の別ブログより編集、転載したものです。

なんと、現在男性の3割が、「座ってションベンをする」のだそうである。(新聞の見出しではションベンではなく「座って用足し 男の3割」「男のトイレ習慣 変化」「清潔志向 / 妻に言われて」であった)

この立ち小便というのは、筆者が女性に「男性というのはね、これこれこうなんですよ。だからね、根本的に女性とはものごとの見方が違うんですよ」というたとえ話にする多用されるものである。

「男性というのは、非常に目的指向的である」ということを説明するのに、立ち小便は最適なのである。

トイレに入りしなに、トイレットペーパーをひょいとちぎって鼻をかむ。そして、その紙をトイレに捨て、そこから小便を始める、という際、筆者は100%の確率でその紙に水流の照準を当てる。

そして、「よっしゃ、紙を突き破ってやるけんね」と水流をほとばしらせる。


水に浮かぶトイレットペーパーというのは、意外に強いものである。あるいはほんの少し沈んでいるその「少し」が、紙に衝撃をダイレクトに当てさせないバリアの役目を示しているのかもしれない。

とにかく、水槽にトイレットペーパーが浮かんでいる際には、100%穴をあけんと狙うにもかかわらず、人生の中で「どぼどぼどぼどぼ」と紙を突き破り、へろへろに雲散霧消させた経験というのは一回もない。

一回もないにもかかわらず、筆者は今日もトイレットペーパーに対して、水流をほとばしらせる。飽くことなきチャレンジャーなのである。

これが雪上立ち小便の際であれば、「少しでも多くの雪を溶かす」ということが使命となる。

というような話を男性にすると、過去、圧倒的に共感を得てきた。

劇団オクトの(先日解散したけど)演出のH坂氏は深い共感の後、

「雪上にて小便をする際には、融雪に励むこともあるが、より長い線を書こう、願わくば文字にしようと試みることもある」

と自身の経験を口にされた。

なるほど、人それぞれ挑戦する種目は多様なようであるが、そのチャレンジジ精神、目的指向的立ち小便という構造は変わらない。

いやいや、待てよ。それはお前(筆者のこと)とH坂氏だけじゃないの?とお疑いの女性の方々もあろう。(男性には深く共感を得ていることと信じる)

しかし、この小便時における男性の「目的達成指向」というものは、我ら二人だけではない!ということを物語る客観的なデータがあるのだ。


男性器というのは、股間から前方へ突き出た水まきホースである。最初は膀胱内の水圧はマキシマムであろうから、ほとばしり出る(これは男女変わらないと思われる)しかし、最終局面になると、水圧は急激に低下するから、「じょじょじょじょじょ〜」とほとばしっていた小水は、「ちょろちょろ・・・」という情けない状況になる。

水流は水圧に応じた飛距離を得るので、最終局面における水流は、垂直落下に近くなる。


すると、その小水は、便器よりも離れて立っている場合には、床面に落ちる。

すると、見た目も良くないし、臭いもするし、清掃の手間も余分にかかる。

そこで

「今一歩前にお進み下さい」

というような掲示が、男性便器の目の高さに貼ってあったりする。


「今一歩進め。 君が思うほど、君の○○は大きくない」

という文言が貼ってあったことさえある。(ホントにこう貼ってあった)

しかし、この文言を読んで素直に前進する輩というのは、非常に少ないのである。それが証拠にどこのトイレでも「最終局面での垂直落下小水による床面汚染」というのは見られるのである。


この問題を見事に解決(ほぼ)解決した公共施設がある。関西におけるもっとも国際的な場所、関西空港である。それも実に低予算で「床面汚染を激減する」という目的を達成したのである。

それでは問題です。

関西空港では、どうやって一個あたりの便器に対して、おそらく10円以下の予算で、小便が床に垂れないようにしたでしょうか?


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正解は「便器の小水があたる面に、的の図案のシールを貼った」である。


便器下部の排水面ではなく、垂直な向こう正面の性器よりもやや低いだけ、というけっこう高い位置に弓道やアーチェリーの的のような◎(確か三重丸だったと思う)のシールを貼り付けたのである。

的の大きさはせいぜい3センチ程度。(筆者、関空で確かにこのシールを見た)

便器が白い壁面だけだった時には無法地帯と化したトイレであったが、的シールを貼られたら、ほとんどの男性がそのシールの的に水流を当てようとしたらしい。シールを貼って以後、床面の汚染が激減、皆無に近くなった、というのである。

かくなるデータをもとに、筆者は男性の小便時における目的達成指向性というものに、ゆるぎない確信を持ったのである。


小便時に、小水の着水地点付近に、なにか達成感のあるもの(融雪とかね)や目標物、的などを置かれると、男たるもの、一心不乱にそこに小水をぶつけたくなるという本能というか、習性があるのである。哀しい性(さが)である。

関西空港という地の利を考えるなら、そのトイレに全世界の男性が集う可能性というのは、たとえば大阪の天下茶屋八尾駅前よりも飛躍的に高い。

ということは、この

「的を見ると当てたくなる小便時の習性」

というのは、これは人類共通の男性の習性であると言えるかもしれない。


さて、筆者は何が言いたくって、延々おしっこの話をしているんだったかな。そうそう、新聞に「男性の3割が、洋式便器に座って小用を足している」という新聞報道を読んで、世の男性のあり方に危機感を覚えたのであった。

はたまた少子高齢化の行く末に、いっそうの危機感をつのらせたと言ってもいい。

立って小便する、という男性がみずからが「雄」であることを自覚する数少ない機会を、それほど簡単に手放していいものだろうか、という思いである。

不二屋のこと、耐震偽装のこと、ねつ造テレビのこと。昨今は「帳尻さえあってればいいんじゃないの」というまことに底の浅い仕事の仕方によるほころびが露呈して、社会問題になっていることが多い。

仕事に対する「誇り」とか、職人としての意地とか、職業人としての使命感とか、そういったものが極端に軽薄化している。


そういったものを持つ人が少なくなるほど、世の中は成り立たなくなる。そういったものを持つ人たちのお陰で、今の安穏とした暮らしが享受できている。

しかしながら、そういった「俺っちは江戸っ子でい」とか「職人でぃ」とか「ぽっぽ屋でい」とか言った矜持というものは、別に周囲からしたら理解不能な本人のみの納得というかよりどころによって成り立っている。これこれこういう理由で江戸っ子であるからには、熱い風呂の湯を我慢する、と言う明白な理由付けなどない。

いうなれば、その彼のよりどころにしている背景にある生活様式に組み込まれていると、本人が思いこむことによって成り立っている。

和式トイレが絶滅の危機にひんしている。これによって推定平均一日一回、下っ腹にぐっと意識やら気やらを集める機会を日本人は失った。

立位による小便を手放そうとしている。これによって一日数回、腰をぐっと入れて我が男性の男性たるゆえんをぐぐぐと前に突き出し、「俺は男だ」を意識する機会を失おうとしている。

これらの生活様式を手放すことによって、どんな影響があるのか、というのは不明である。しかし、雄が雄を意識する希少な機会を手放すことにはやはり危機感があるのである。

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